Tuesday, January 6, 2009

沈黙に負けないように

For those who read Japanese, the below is the first rough draft of my entry to this year's Speech Contest. Wish me luck :D.



沈黙に負けないため

初めて愛の告白をした時、フランス語で相手からの「さようなら」というメールしか残らなかった。自分の気持ちはとても純粋なものだったので、私はあの返事で完全に潰されて、強烈な恥と罪悪感で1年間のうちにフランス語を口にすることさえできなくなった。私はもう一度、沈黙の深淵に沈んでしまったのだ。


12歳の時から高校を卒業した時まで、優秀なフランス語の学生だったが、本当は今でもフランス語を喋る自信はなく、いつも喋るときに正しい言葉を探すのも恥ずかしくて、時々ケベックとフランスの人に話すことも恐ろしい。自分が作り出した沈黙で、私は潜在的な友達を失い、不要な距離と孤独で苦しんでいた。


アメリカから引っ越した後、友達に話すことを恐れた時も、大学の教授と話すことを恐れた時も、心底から同様に苦しんでいた。でも同時に最低の臆病者になったと言ってもいい。


去年、日本語の勉強の場合でも同じような事件もあった。ある日、日本語の先生に相談しに行かなければならなかった。彼女は深く尊敬してる人で、失望させることも怖かったので、先生に喋ることは何よりも恐ろしかった。結局、沈黙を抱くことで作文を書く時に同じような間違いを繰り返して、問題になっていた。


彼女の前でストレスで自分の泣きだしたことをいつまでも忘れられない。でも彼女が言った言葉、「どうして日本語を勉強してるの?」という質問を泣くことよりもよく思い出している。そしてその質問は自分の命を変えた。


今は、毎日日本語を習う理由を考えながら二つのことに気づいた。まずは、私は一生、沈黙に支配されたということ。そして日本語でその沈黙を倒す力を求めているということ。


成長しながら、慰安婦問題を引用して、私はよくまわりの台湾と中国の人にもある親戚にも「日本人を憎め」という激しいメッセージに攻められていた。日本を庇う人は一人もいなかった。沈黙しかなかった。


個人的に反対のない会話が凄く疑わしいと思っていた。そして、過去に激しいいじめを経験してきた私はそう簡単に人を恨むことなんて想像さえもできなかった。逆に、私のいわゆる天敵を必死に理解したくて、日本語を勉強に飛び込んだ。その結果、日本人からの沈黙が消えていった。日本人の友達を作ることで、その人の意見を聞くことで、同じ歌を歌う事でも、日本人はシンボルではなくなり人間に生まれ変わった。


言語を勉強するというのは、気持ちを伝える力、心を繋ぐ力、人を思い出す力、そして沈黙を倒す力だ。言葉という奇跡で、一日間のうちに我らは感謝と愛情を伝えたり、人を感動させたり、記憶を作ったり、友達を作ったり、命を変えたりする力を持つ。


逆に、ある人と関係を切って沈黙と距離を作る時、その人や絆や思い出を殺して侮辱することに等しいのだ。

今だけは、様々な沈黙で失ったモノの価値を理解してる。


だから今、ここ戦いに、この沈黙に負けないために、私は勇気を持って、口を開いて、頭を開いて、心を開いて、ここに立って、話してるのだ。


ありがとうございました。

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